известие
伝え聞いてから咳が止まらない
首から肩にかけての重石が頭を下へ促す
手と床と鼻先とを近く
ここから階下を臨んでちりぢりに
指も視線も
あぁ・・・
あぁ・・・
チェーホフにおけるсострадание<サストラダーニエ>(共苦)について考えている。でもまだうまく言えない。
今は、『三人姉妹』で自分の死を予感していた男爵トゥーゼンバフの言葉を思い出す。
「僕は晴れ晴れとした気分だ。まるで生まれて初めて、あの樅や楓や白樺を見るような気がするし、むこうでも僕を、じろじろと物珍しげに見て、固唾をのんでいるみたいだ。なんという美しい樹々だろう!そして本来なら、こうした樹々にかこまれた生活は、すばらしく美しいものであるべきなんだ!(・・・)おや、あの木は枯れている。けれどやっぱり、ほかの樹と一緒に風に揺られている。あれと同じように、もし僕が死んでも、やはりなんらかの形で、人生の仲間入りをして行くような気がする。」
『三人姉妹』チェーホフ/神西清訳 新潮社
この戯曲を個々の話材の視点から見ると、どうしても登場人物に欠点を見て取ってしまう。精神病みの妻を持つ陸軍中佐ヴェルシーニンは哲学論議に甘んじ、それも暇つぶしの域を出ない。軍医チェブトイキンは役に立たない古新聞を持ち歩き、イリーナは働かなければ!と繰り返しながら、働き始めるとすぐに労働に絶望する。アンドレイにおいては三人姉妹の期待にそぐわず市会議員に落ち着き、さらには妻ナターシャを上司の市会議長プロトポーポフに寝取られてしまう。その精神的退廃は醜く肥大する身体によく表れている。
総じてどの人物も科白が行動しないための代用となっている。
けれど、全体を通して読んでみると、読めばよむほど、実際は誰も責められるべきではないのではないかと言う気がしてくる。臆病でセンスの無い許婚から終盤には有無を言わさず家政を仕切る横暴な主婦に変貌したナターシャだって、この戯曲に出てくる四人の女性の中でただひとりお喋りに高じず自分の役目を果たし行動を起こしている。
ここで思い出されるのは、『桜の園』という戯曲で、ひとり園に残された(たぶん死へ向かう)フィールスが呟く「未熟者め(出来損ない)が!」という科白・・・。人間の存在を完璧ではないもの(出来損ない)として捉えるところから始めるドクトル・チェーホフの視点。
先の引用に戻るけれど、トゥーゼンバフは真実を語ったように感じる。彼の語る自然は、日常で流される言葉とは全く違う新しい捉え方のされるものとして描かれており、その表現はチェーホフによって異化されている。『三人姉妹』読了後の景色を思い出す。チェーホフの異化した言葉によって影響を受けた目には、世界がなにか「生まれて初めて」見るようなものに映る。
そして、それに気付いてちょっと、感動というか、心がぶるっと震えた。チェーホフの戯曲は多面的な視点で構成されていてうまく入り込めず、平坦に見えたこともあるし、劇中では事件らしい事件も起こらない。科白は噛み合わないし、この戯曲をを四篇の「喜劇」と言うし。
でも、何か、「異化された日常の描写」に触れることがある。
どうしてこんなこと書いてるんだろう
もう今日は寝よう、寝よう、今日は、もう




