四月の井戸
四月はおかしい月。
じりじりしたズレが新しいもので掻き消されるし、雨で、その上に花が積もる。
意識が遠のく瞬間の薄い境界線のハザマに、誰かの汗だくな表情が浮かんだりして、そんな時頭の空に浮かんでいる、切・な・い、の文字が、後ろから打たれてスコーンと落ちてくる。
それだけで飽和してしまえる薄い言葉が、ここ最近居座るんです。
廻るだけ、それすら追い越して繰り返す時間が一週間を満遍なく均して、そうやって重ねられた一ヶ月を取り戻せないものに私はしていると思う。
でもこの月は、、、前の月を届かないものにするばかりで、そう、何も出てこない、私からあなたが零れていくんです。
その、零れ「落ちる」瞬間の、肌を伝うように擦れる感触と、遅れてくる摩擦音に、心底、ぞうっとします。
足先冷たく、
どうしよう、受け取った、言葉が、
高2の頃、当時の彼氏からプレゼントされたサリンジャーの「フラニーとゾーイー」を持ち歩いていた。夢中になって読んだのを思い出す。ぼろぼろで至る所に赤線が這っていて、まさに私の物のようだった。
大学帰りに拠ったバイト先の塾の、生徒の一人に、
貸すだけだよ、読んでみてね。
と言って手渡した。その子も高校二年生で、そんなことに大して意味はない。
大学生の私は、そんな「フラニーとゾーイー」の代わりに、ガルシンの「紅い花」や金井美恵子の「愛のような話」などの本と、むくむく増える課題と、有り得ないほど重たい露和辞典を持ち歩いている。
あまりに分断されているんだ。
私から私へと手渡す、月を跨ぐ行為がそこだけ井戸のように抜け落ちている。
その一月の分断作業が更に細分化していく音の中で、否応なく朝と対面してしまい、涙が出てくる。
このまま井戸に落ちるみたいに、ひゅるるる・・・と小さくなって消えてしまうんだ。
何が?
もう私じゃない。
最近は本ばかり読んでいて、それを少し中断しなければ、と恐々思っている。
過去に書いたもの、そこや、どこかでかけてもらった、その人たちのいる、そこにあった言葉に出会いなおし、手渡せなかった、受け取れなかった井戸の中身を、降りて会いにゆく。
どこにいてもいい。コールに満ち、それに応える声を。




